静岡県浜松市大平台の墓地・永代供養・樹木葬は、白華山 永福寺へご相談ください。

永福寺とは

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永福寺とは

入野郷田端を往来する雄踏街道北側に於いて不却徳公禅師開山以来、入野郷本所龍雲寺の末寺の法脈を伝える。当山の開創の年代は不詳である。過去帳には慶安三年(1650)年の戒名が記載され、第二世槐翁西堂和尚が元禄七年(1694)9月6日入寂している。
檀家には河野,河口,山口を名乗る一門があり、低地に居住していたことを伺わせる。当時の境内地門前広場は高札場となっており、東側には入野郷の庄屋竹村又右衛門の広大な屋敷に隣接していた。明治初期、時代の変動期には寺子屋や学校として使われ、入野村役場に転用されたこともあるという。
近代になり都市計画道路上島柏原線の道路に係り、移転先の佐鳴湖西岸土地区画整理区域内の現在地は寺領残地が集合換地されたもので4,000㎡ある。本堂諸堂の建築物、墓地、庭園はすべて新設し、平成7年4月23日落慶・晋山(住職の交代儀式)を行った。

 

宗派の教え

お釈迦様の正法を受け継がれた初祖達磨大師、宗祖臨済禅師さらに開山無相大師に及ぶ一流の禅を宗旨及び教義とします。

生活信条

  • 一日一度は静かに坐って、体と呼吸と心を整えましょう。
  • 人間の尊さにめざめ、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう。
  • 生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう。

信心の言葉

  • わが身をこのまま空なりと観じて静かに坐りましょう。
  • 衆生は本来仏なりと信じて拝んでゆきましょう。
  • 社会を心の花園と念じて和やかに生きましょう。

 

ご本尊様

本堂

木造聖観世音菩薩坐像(新本尊)
宝暦13年(1763)
9月18日、浜名郡新居、要津寺より購入
造作、寛永16年(1643年)仲春、仏師、森半左衛門

位牌堂

鋳銅製聖観世音菩薩立像(旧本尊) 高さ80㎝
厨子の内正面に元禄9年(1696)正月吉日、江戸に住む中村氏の子孫が、先祖供養のため奉納した旨の墨書がある。
扉の戒名は中村氏の先祖に当たり、居士名慶安3年(1650)、大姉名慶安4年(1651)、は当山の過去帳に記載がある。
時代は下り、昭和34年不思議なご縁で、この立像(旧本尊)が厨子とともに当山に戻ったため位牌堂に収め、春秋の彼岸の期間御開帳している。
座像(新本尊)を安座した宝暦13年からでも実に196年ぶりの帰還です。

白華稲荷大明神

当山十世晦邦玄要和尚が安政5年(1858)に大願し、正1位伏見五社稲荷大明神、豊川平八稲荷大明神を奉勧請し、改請白華稲荷大明神として、本堂内仏前に安置し、消災除行、五穀豊穣、万民和楽、村中並び講中諸人安全を祈り雨乞い等の祈願あり、村民の心信が厚かった。慶応3年朔には浜松城主井上河内守の願立聞済の上、鳥居を立てこの地に安置され諸人参詣のための令が出された。明治初めに再び本堂内仏前に安座されたが、十一世儆道和尚が小祠を造営した。定例大祭は十二世利文和尚が昭和55年復活し、当地へ移転後も毎年信者の願いを聞き届けている。
記録されている逸話として、永日照りにより一村の総代が集まり、雨乞いを神仏面前にした処「眷属往来神供之物、多人数之目前ニ而喰於見テ皆大イニ信心ヲ起ス」*眷属・・一族従者。すなわち稲荷様のお使いであるお狐様がどこからか出てきて、大勢の人が見ている前で供物を失敬し食べるのを見て、皆大いに驚き神仏のご加護を確信した。とあります。
大祭 2月二の午の頃 日曜日に実施。

 

宝物

掛け軸 涅槃像

法橋 水谷憬南筆  天明五年(1785年)稔乙巳二月日 の年号の箱書きあり

父母未生以前本来面目…前住妙心大愚

大愚宗築筆(1584年~1669年) 江戸前期の臨済宗三大禅僧の一人 江戸 南泉寺住持 出雲松江藩主 堀尾山城守忠晴の二妾をかくまい窮状におちいる逸話が残る。

遺構

花崗岩をノミにて刳り抜いた井戸枠(駐車場入り口西側)
浜松市役所前の道路を拡幅中に浜松城お堀の跡地から発掘された遺物

日本画 「仏跡游行」

1984年:150号作品・画:大川原平八
日本画院同人審査員 静岡県文化功労者賞
文化大臣賞受賞
この作品はジャワ島ボロブドール遺跡を題材とし、1984日本画院展佳作作品である。 

永代供養・樹木葬・お墓の事など TEL 053-485-6606 お気軽にお問い合わせください。

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